★生きている意味と「愛」

実は最近まで、「愛」と言うものを認識したことは在りませんでした。
子供のころも、結婚してからも、毎日の生活が大変で、
「愛」というものを深く考えることがてきませんでした。
ここ10年ですが、カウンセリングを生業にして多くの人と接して居るうちに、
本当の愛を持って生きている人もいることを知りました。
それまでは、愛は、性愛の一種で依存症、と考えていました。
愛には、親子愛、男女愛、夫婦愛、師弟愛など、いろいろな形態がありますが、
より普遍的な愛の基本というのは、相手の心を思いやることだと思います。
相手の心が、元気になるようなアプローチをすること。
それは、相手に希望を与える事です。
男女の愛にしても、親子愛にしても、相手の心に元気を与えることが愛の意味でしょう。
私の親はいつも「お前はどうせ何も出来ない」と言いました。
愛のある親なら「また頑張ろう、今度は上手く行くよ」と励ますでしょう。

親子愛や男女愛のような、現象的な人間関係に関わらず、愛の基本は誰でも出来ます。
笑顔と励ましの言葉。私は、施設に居たことがありますが、
重度の障害者で自分の名前も言えない人が居て、その人は笑顔だけはできましたが、
その笑顔にとても励まされました。
その障害者は、周囲の人間に対して愛を持っていて、
自分が出来る精いっぱいの行為である笑顔を発していたんです。
その人に会ってから、私も心がけていますが、欲の強い人や、
尊大な人にたいしては難しいですね。その方の魂は光で満ちていて、
いつも光を発していたのですが、肝心の家族はそれを感じていませんでした。
「どうしてうちの子はこうなった、出来そこない」と思っていました。
本人は頑張って笑顔でいるのに。私の家族も、私を「半端者め!」と決めつけているので、私の本当の気持ちを理解しません。
身近な家族が、自分の本当の気持ちをわかってくれないのは、とても悲しいことです。
いつも努力して、家族のために頑張っていても、無視されています。

障害者や弱者は、その状態で精いっぱいのことが多いのです。
常者には簡単な事でも、障害者には無理おおして行っている。
例えば、ベットで体を起こすことですが、お見舞いに来るお客さんのために、
起きてご挨拶をするのは常識ですが、障害者には無理な場合があります。
愛の無い健常者は「失礼な」と感じます。
「ベットで寝て暮らしているのだから、楽だろう、ちゃんとやれよ」と思うようです。

私は一時、トイレにも一人で行けない状態になりました。
その時はもっと悪くなると覚悟したので
「このまま悪化して何も出来なくなったらどうしよう。せめてできる事は何だろう」
とずっと考えました。
それは、前述のように、笑顔だと思いました。
顔の神経がマヒして動かなくならない限りは、最後までできます。
家族のために笑顔を絶やさないようにしよう、と思いました。
でも、ダメでした、夫が「お前、馬鹿じゃないか、へらへらするな」と言いました。
「痛いというよりは、笑顔でいた方が良いでしょ」というと、
不思議そうな顔をしていました。何もわからない人間なのです。
私は夫は嫌いでしたが、一緒に住んでいる以上は平穏に暮らしたいと考えていました。
家族は笑顔でいれば、夫も元気になれるはずですから。
それが私のせめてもの愛ですが。。。

それから20年以上経て、一時良くなりましたが、最近はまた歩けなくなっています。
もっと悪くなって、何も出来なくなったら、最後は残るのは、笑顔のお返しですね。
それは、最終的な生きる意味です。人に元気を与える事、生きる意味。
意識不明にならない限り、何とか笑顔はお返しできるでしょう。
現段階でも、何も出来ない人間で、家族からは「役立たず」と言われていますが、
笑顔の行は忘れたくないです。でも、何度も言いますが、
理解してもらえないのは悲しいです。

| 茨城の母 自伝 | 02:43 | - | trackbacks(0) | - |
 
 

心を守ることと、信念を持つこと

リアルで障害者として生きることは、困難の積み重ねです。
テレビや小説のような感動のストーリーはありません。
私が今までに体験した事をありのままに書いていきます。
世間受けする綺麗ごとは何もありません。
私の人生の半分は、両親の家庭内暴力や、夫のパワハラに悩む毎日で
それをお伝えすることになりますが、すべて事実です。
恵まれた対人関係で、平穏な暮らしをされている方には抵抗のある内容です。
嫌な感じを受けたのでしたら、スルーしてください。
私は、生まれ育った家庭が、暴力的な場所でした。
近所にはヤクザの会長さんの邸宅があり、父が働いていた会社は、
そのヤクザさんが経営していました。
先輩のヤクザが後輩のヤクザを厳しくしごいている様子を見て育ち、
暴力が日常的に身近にありました。
家庭でも、父は飲んだくれているか、母と喧嘩しているか、の記憶しかありません。
男性は、大人になると酒を飲んで暴れるのが普通で、
それに耐えながら生きるのが妻の勤め、と思っていました。

★心を守ることと、信念を持つこと

子供のころから、自分を守ることを考えてきました。
自分を守る、とは、ズルく立ち回ることでは無くて、周囲の暴力から、
自分の心を守ることです。
前述のように、親はキツくて短気な性格だったので、
毎晩夫婦喧嘩をし、子供の私にも八つ当たりをしました。
物心ついたときには、「さっさと死ね」「お前は生きている意味無い」
といった言葉の暴力や、蹴られたり物を投げつけられるのは常体化していたので、
それが普通の事、普通の家族なのだと思っていました。
「親が暴れるのは当たり前の事だから我慢しなければ」と。
でも、いくら当たり前の事、と割り切っても、
毎日「役立たず、生まなければよかった」と言われ続けると心が折れてしまいます。
そして、「ぶっ殺す」と言うので、敵と認識しました。
親ですが、殺すというのですから、敵です。
敵と一緒に暮らすから、自分を守らなければ、と思ったのです。
子供なので単純な思考過程です。
その中で、生きている意味や真実とは何か、を考えていきました。
私は、子供心に「早く大人になって独立したい、この親から離れたい」
と決意していたので、
それまでの間は、自分の心を維持したい、自分の心を守りたい、
そのためにはどうしたら良いのか?と思案しました。
暴力に耐える心を作ること。他人からの暴力は逃げられるが、
子供は、家庭内の暴力には耐えるしかないですよね。
家庭内の弱者は、耐えながら、自分が自立できる機会を待つしかない。
そのような境遇にある人に、スピリチュアルは何が出来るのでしょう?
日常的に暴力に曝されている人間に、感謝の祈りを唱えても、
よほどの精神力が無ければ、感謝行はできない。
「お前なんか、さっさと死んでしまえ!」と怒鳴られて、
その相手に対して「ありがとうございます。感謝します」
と手を合わせることはお釈迦様でも出来ないでしょう。

「イスラム国」の迫害で存亡の危機にあるヤジディ教徒に思いをはせる時、
自分がもしヤジディだったらと共感すると、どうやって信仰をまもるのか?と考える。
どうやって、自分自身を守るのか、自決するしかないのだろうか?
ヤジディの人々のように、家族が殺され、奴隷にされ、レイプされて、
それでも生きなければならないとしたら、
自分自身を如何にして維持し得るのだろうか?
ただただ、恐れおののいて耐えていくしかないのだろうか?
ヤジディの人々の苦難とは比較にならないですが、
私が子供のころに受けた暴力と重なるものがあります。
心と魂を、いつも平穏に保ちたい、と願って、出来るだけ心を波立たせないで、
執着を無くした生活をしても、家庭内暴力や虐め、
言葉の暴力に曝される日常に身を置かなければならない場合は、
どうすれば精神と魂を守れるのでしょう?
一番いいのは、その環境から逃れることですが、子供や女性、
障害者のように弱い立場の人間には中々出来無いことです。
実際に、私は親から逃れるのに25年以上かかって、
その後の夫からは13年かかりました。

何かわからないのですが、私は相手を尊大にさせてしまうところがあるようです。
親は仕方ないにしても、夫は初めの半年は良かったのですが、
段々尊大になり、離婚するころには飲んだくれて、私を家政婦のように扱いました。
また、家族だけでなく、職場でも私より役職が下の同僚に、
大柄な態度で物を言われました。
後になって分かりましたが、私は物事は、マイペースにやる様にしていますが、
それをせっかちな人が見ると、サボっているように感じるらしいです。
仕事については、労務契約通りにきちんとやっているのですが、
セカセカと動いている人には、私の仕事は、だらだらしているように見えたのでしょう。
確かに、実家の親は短気でしたし、夫も器の小さい亭主関白でした。
私の周囲の人間たちは、元気な健常者で、いつも忙しく、イライラしています。
「よっこいしょ」と、ワンテンポ置いて行動する私が、ウザく感じたのでしょう。
要するに、自分たち健常者とは違うテンポで生きている私が目障りだったのです。
そういう人たちに、私の気持ちを理解してほしいと言っても「だから何よ!」
と反発されます。

尊大で、弱者を虐める人間は、その弱者を人間的に下に見ていますから、
バカにしているので、こちらが降参して、無抵抗でいると油断します。
加害者を油断させて、自分の心を守りましょう。取り敢えず、激高させない事、
無用な口論をしないこと。そのために、機嫌を取って接待します。
そして人生のチャンスが来た時に、パット逃げましょう。
私は、それを二回やりました。とても疲れました。
もう尊大な人とは関わりたくないですね。
とにかく、「いつかは救われる、道が開く」と信念を持つことです。
物事は、いつまでも同じままではありませんから、必ず出口が見つかります。
その時の為に、体力を維持して、支援者を作っておくことです。
自分が弱者になり、虐めの対象になった時こそ、冷静に考えて行動しましょう。
加害者が身内であって、毎日酷いことをされても、心の中の理性は維持しましょう。
だって、自分は、尊大で無神経なバカ人間たちのために
生きているのではないからです。自分は自分の為に生きています。
知力と気力を振り絞って、現状から脱出しましょう。

前述した、ヤジディの人たちも、「必ず救われる」と信じて生き延びているのでしょう。
だって、ヤジディの人たちは、イスラム教のために生きているのではないでしょう。
自分の神のために生き続けるのでしょう。
神の為なら、どんな屈辱も暴力も耐えて生きていけるでしょう。
ヤジディは、光の神だそうですが、彼らは、光の神のために生きています。
自決は神は望まないでしょう。子供のころは、そこまで深くは考えませんでしたが、
今の自分は、やはり信念のために生き続けています。

子供の頃の親の口癖は、「お前なんて産むんじゃなかった」
「お前は生きている意味無い」でした。
「だったら産まなきゃよかっただろ!」って、決まり文句でしたが、
それは良く考えると自分で自分を否定している発言ですよね。
子供心にも気が付いたので、私は心の中で「この親より必ず偉くなってやる。
早く大人になって独立したい」と決心しました。
親に「生きている価値無い」って言われるたびに、早く大人になって独立したい、
という思いを強くしました。親に、蹴られたり、縛られたり、ステッキで殴られても、
「早く大人になって独立する」という思いが、私を支えました。
そのためには、学歴、勉強です。

つづく、


これを載せたら、「嫌、そうでは無い、もっと人間を信じなさい」
という意見を頂きました。それは良くわかりますが、それは建前のように感じます。
人間にはいろいろな意味で限界があり、結局は自分が大事です。
私は、自分を大事にしたいのです。そうしないと生き続けることが出来なくなります。
| 茨城の母 自伝 | 01:47 | - | trackbacks(0) | - |
 
 

無神経な親のおかげで本当の真心を知る

無神経な相手から、「そんなの意味無いよ」「だから何?」「どうせダメでしょ」

と言われて傷つくことがありますよね、特に家族ですが。

私は母親がキツイ人で、いつも「お前なんて生むんじゃなかった」

「捨ててくればよかった」と言われていました。

でも、子供のころは自分の母親だからと、それなりに慕っていたので、

母の日には絵をかいてあげたり、母が仕事で遅い時は夕食の支度をしていました。

自分なりに家族のため、母のためと思ってお手伝いをしていましたが、

その私の真心は、たいていは無視されていました。

お駄賃が欲しいとか、褒めてほしいとかはありませんが、

口汚くののしるのは辞めてほしかったのです。

真心の一方通行ですよね。他人なら、そう感じた時点で疎遠になります。

家族だから、親だから、真心の一方通行でも、やってあげなければ行けません。

私は、聖人でないし、強い人間でも無いので、真心の一方通行はとても孤独で、

生きている意味を感じなくなりました。覚えている限りでは、小学五年の時には、

早く死にたいと感じていました。 真心の一方通行は、とても悲しいし孤独です。

しかし、まだ子供なので、この親に扶養されている間は耐えていかなければなりません。

そこで自覚したのは、真心と言うものは、心の栄養のようなもので、

毎日生きていく上で大切にしなければならないものということ。

「自分の真心は大切にしよう、無神経な家族から守ろう」

そのためには、どうしたら良いのでしょう?

「そうだわ、形だけやっていれば良いのよ、人は心の中はわからないものね」

真心を見せる必要はないのです、形だけやっている振り、つまり要領よくやるのです。

それから少し大人になったというか、親に、合わせる、ことが出来るようになりました。

すると少し、良い子、になったのか、親はイライラしなくなりました。

その後、家族のトラブルが減り、その分、精神的に落ち着き、

酷い落ち込みは無くなりました。

心が冷静になって、分かってきたことがありました。

私に対して真心を向けてくれる存在です。

当時、猫と犬を飼っていました。黒ちゃんとパピーです。

この子達は、私が学校から帰ると、

とても喜んで、体全体で喜んでくれました。動物が持っている真心ですよね。

私は、人間には感じませんでしたが、動物たちには本当の真心を感じていました。

それと、もう一方で、亡くなっている祖父母の霊も、私に真心を向けてくれました。

いつも温かく見守っている気配がしていました。

特に祖父霊ですが、勉強も教えてくれました。

祖父は生前、会計士の仕事をしていて、博識のある人物だったそうです。

私は算数が苦手でしたが、どんな参考書を買うといいのか、

勉強の仕方などをアドバイスしてくれました。

現世の親は子供の教育には無関心なので、勉強は教えてくれませんでした。

今になって考えると、子供のころに親が無神経だったお蔭で、

真心を深く考える機会があり、

早い段階で、魂を守るという意識を持てたのは良かったと思っています。

真心は、魂の奥深くから湧き起こるパワーで、神霊に通じるものです。

自分の真心を守ることは、神霊との繋がりを保証するものであるし、

同様に相手の真心を尊重し、労りの気持ちを向ければ、

相手も自分も高め合える関係になります。


無神経な人たちの中で、真心の一方通行をやってしまうと、

利用されたり、頼られたりで、

「あの人、良い人よね」で終わっちゃいます。

友情に見返りは求めない、というのは、建前論です。

欲が深い無神経人間に利用され続けると、真心の無欲人間は疲れてしまいます。



| 茨城の母 自伝 | 17:15 | - | trackbacks(0) | - |
 
 

熊っ子に芋虫、今はペンギン

家族って感情のゴミ捨て場だよね。。。


★お前なんて居なくなれば良い!

子供時代の親の口癖は

「お前なんて居なくなれば良い!」でした。

私も生意気だったのですが、母はイライラするといつもそう言いました。

物心ついたときにはその言葉がこびりついていて、

私は、言葉通りに受け止めていたので「早く自立してこの家を出なければ」

と考えていました。とにかく、この人たちとは気が合わないから、

同居していても仕方ないのです。家族ですが、他人より遠い人たちに感じていました。

その孤独感を決定的にした事実がわかりました。中学生の頃、父の姉にあたる

伯母が遊びに来ていた時に、たまたま二人きりになることがありました。

伯母は昔のこと、父の幼少時代のことなどいろいろ話していました。

「久美ちゃん、貴方は早産だったのよね、一か月以上も早く生まれたから、

善夫(父)が、別の男の子じゃないかって疑ってたんだよ。

哲ちゃん(母)、お見合いして嫁に来て、すぐ妊娠したでしょ。

結婚前に付き合っていた男の子だって思っていたらしいよ。

やっぱり私がここに遊びに来ていた時のことだけど、

哲ちゃんが、久美ちゃんを善夫に預けて買い物に行ったのね、

久美ちゃんはクズって泣き止まないから、善夫は切れて、久美ちゃんを

床に放り投げたんだよ。私はあわてて止めに入って久美ちゃんを助けたけど。。。」

なるほど、それで合点がいきました。

「お前なんて居なくなれば良い!」の意味。

その伯母の話を聞いてからますます自立心が強くなりました。


★芋虫、熊っ子! 今はペンギン?

私の幼少期のあだ名は、芋虫と熊っ子でした。

そのあだ名を知ったのは、小学校低学年の夏休みのことでした。

何年かぶりで、年上の従兄弟が遊びに来たとき、私の顔を見て開口一番

「熊っ子、大きくなったね」と言うのです。私が不思議そうにしていると、

別の従姉妹は「芋虫でしょ」と言います。

私は、久しぶりに会った身内なので、あまり気に留めないで遊んでいました。

ただふざけているだけなんだな、と思いましたが。。。


私は、一歳から三歳までの間、両足がギブスで固定されていました。

先天性股関節脱臼というやつで、腰から足首まで、蟹股の格好にされていました。

そうやって固定すると、関節がハマる?らしく。 結果的には、治ってないのですが。

蟹股のままで動けない状態だったんですね、今想像するとイラっと来ます。。。

でも、足首はちょこちょこ動かせて、足首のスナップを利かせて、

のっそりのっそりとハイハイしていました。

それを見ていた従兄弟たちが「熊っ子来た!」とからかっていたのです。

別の従姉妹は、ギブスの包帯でぐるぐる巻きになっていたので

「芋虫だ!」と言っていました。

ま、過去のことですがね、他人ならそこまでは言わないですよね。

どうせ何もしてくれない身内ですから、礼儀のある他人の方が良いです。

それで、今はペンギンと呼ばれています。

ここ数年で、足の状態が悪化して、左右の長さが違うので、

ピョコピョコ歩きになっています。

それを見た今の旦那が「ペンギン歩きだね」と言うのです。

やっぱり、身内は厳しい! 私が同じ言い方をしたら逆切れするだろにね。




つづく





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茨城の母 簡単プロフ

★盲学校に入るまで、


 1960年 昭和35年 北海道夕張郡栗山町に生まれて、高校まで過ごします。

一歳から三歳まで、両足の先天性股関節脱臼でギブスを付けられたため

歩けず、従兄弟たちに、芋虫とか熊っ子と言われいじめられました。

幼稚園に行く頃にはなんとか歩けるようになっていましたが、

足は治り切らず、体育はすごく苦手で、運動は何をやってもビリでした。


普通に暮らせたのと、仏教に興味があり、駒大を目指してお受験しました。

担任の先生も合格できるかも知れないというので、頑張っていました、が、

高校三年の夏頃から急激に視力が低下して、10月には0.03位になりました。

緑内障でした。当時は良い治療法が無く、経過を見るしかありませんでした。

そこで、進路をどうするか悩むことになりました。

と言うのは、私の両親は、私が物心着いた時から夫婦仲が大変に悪く、

毎日のように大バトルで、たまに私も八つ当たりされて、蹴られたり叩かれたり。。

ビール瓶を投げつけられたり、スコップを持って追いかけられたり。

そんな親を見てきたので「早く自立して、この家を出なければ!」

と考えていたのです。駒沢の仏教科をでたらお寺に御嫁に行こうと思っていました。

でも、このまま眼が悪くなり、見えなくなったら大学の勉強は出来ません。

しかし、自立はしたい、この親からは離れたい!

で、たまたま町内に、鍼灸の治療院がありました。

「鍼灸師なら、手に職が付き自立できるよね」とひらめきました。

そこで、即行、その鍼灸院の先生に会いに行き、鍼灸学校の情報をゲットしました。

いろいろとお話をしているうちに、先生に気に入ってもらい、

「勉強に来なさい」と言っていただきました。

そして、なんか都合がいいというか、道が出来ていたというか、

その鍼灸師の先生は、北海道の鍼灸師会の理事で、鍼灸の学校にも顔が利く方でした。

「やっぱりこれは導きなのかも」と感じました。









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