エックハルトの無と釈迦の無、ウィトゲンシュタインの無主体

 おおざっぱ解説です。

言い訳ですが、専門家ではないので参考程度でお願いします。

霊能者としての内的体験に基づく私見です。


<エックハルトの無>

基本的にマイスター・エックハルトは、行者さんなんですよね。

日本で言えば、千日回峰行をなさっているお坊さんのような方、

と理解すると良いです。

ただひたすら、仏に帰依して、仏と一体化することを求めます。

それは恋愛に近い心境です。仏を愛して、愛すればいつも一緒に居たいと思うでしょ。

エックハルトも、キリストを憧憬し愛しました。接神の行です。

俗世の男女の恋愛でも、相手を心底愛すると、自分を忘れてしまうでしょ。

熱愛していると、相手のことばかり考えています。

エックハルトの無もこれに近い心境です。

でも相手は神様なので、ちょっと意味が違ってきます。

神を憧憬して、神を愛すれば愛するほど、己の中の罪人の部分が大きくなり、

それが苦しみになって湧き出てきます。それを神の前にさらけ出し昇華しますが、

大きな苦しみをともなう行になります。徹底して己を消し去り、無に至ります。

神に対する全身全霊をかけた愛が前提となっている「無」です。



<釈迦の無>

それは要するに「これは無かったことにしてください」という意味の無ですよ!

世界は、原因と結果の方程式により成り立ち、それが縁によって発動するというもの。

しかも、御釈迦さんは現象は「悪」という前提で物事を考えているでしょ、「色」

だからこの現世の現象は、良いものではないという固定観念があり、

なので、世界の始まりにさかのぼり、そのビッグバンは無かったことにしましょう、

と望んでいて、その意味での無なのです。

世の中は「色」だから、消えていくもので、それに執着するのは無意味っていうこと。

それは完璧に正しい、けど、「色」は悪いものではないですよ。神道の考え方!

釈迦の「無」こそ無意味かも知れない。

現世の現象は、宇宙が成長する過程であり、「善」なるものです。



<ウィトゲンシュタインの無主体>

世界は、出来事の寄せ集め、出来事の積み重ねであるという

「感触」があると理解できます。

その出来事の間を行ったり来たりしているのが「私」「自我」です。

さらにその「私」も、もっと大きな出来事の中で動かされています。

将棋の駒のように動かされているのが「私」

そういう意味で「私」には実体性がないので、無といううわけです。

「私」はそれを含む出来事の総体(世界)に動かされているに過ぎないのです。

そう、霊界からみるとその通りなんです。

人間は霊界に動かされています。それを自覚できないだけです。

自覚するには神の高みに立たないとわかりませんが。



これらの「無」の行は、その行き着くところは、霊媒になるということです。

世界と神に対して「無」になるということですからね。

己が無になれば、高次の者が降りてくるのですから。

「無」の行は哲学ではなくて、すこぶる霊的なメソッドです。








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