エックハルトの無と釈迦の無、ウィトゲンシュタインの無主体
2012.12.12 Wednesday by 茨城の母
おおざっぱ解説です。
言い訳ですが、専門家ではないので参考程度でお願いします。
霊能者としての内的体験に基づく私見です。
<エックハルトの無>
基本的にマイスター・エックハルトは、行者さんなんですよね。
日本で言えば、千日回峰行をなさっているお坊さんのような方、
と理解すると良いです。
ただひたすら、仏に帰依して、仏と一体化することを求めます。
それは恋愛に近い心境です。仏を愛して、愛すればいつも一緒に居たいと思うでしょ。
エックハルトも、キリストを憧憬し愛しました。接神の行です。
俗世の男女の恋愛でも、相手を心底愛すると、自分を忘れてしまうでしょ。
熱愛していると、相手のことばかり考えています。
エックハルトの無もこれに近い心境です。
でも相手は神様なので、ちょっと意味が違ってきます。
神を憧憬して、神を愛すれば愛するほど、己の中の罪人の部分が大きくなり、
それが苦しみになって湧き出てきます。それを神の前にさらけ出し昇華しますが、
大きな苦しみをともなう行になります。徹底して己を消し去り、無に至ります。
神に対する全身全霊をかけた愛が前提となっている「無」です。
<釈迦の無>
それは要するに「これは無かったことにしてください」という意味の無ですよ!
世界は、原因と結果の方程式により成り立ち、それが縁によって発動するというもの。
しかも、御釈迦さんは現象は「悪」という前提で物事を考えているでしょ、「色」
だからこの現世の現象は、良いものではないという固定観念があり、
なので、世界の始まりにさかのぼり、そのビッグバンは無かったことにしましょう、
と望んでいて、その意味での無なのです。
世の中は「色」だから、消えていくもので、それに執着するのは無意味っていうこと。
それは完璧に正しい、けど、「色」は悪いものではないですよ。神道の考え方!
釈迦の「無」こそ無意味かも知れない。
現世の現象は、宇宙が成長する過程であり、「善」なるものです。
<ウィトゲンシュタインの無主体>
世界は、出来事の寄せ集め、出来事の積み重ねであるという
「感触」があると理解できます。
その出来事の間を行ったり来たりしているのが「私」「自我」です。
さらにその「私」も、もっと大きな出来事の中で動かされています。
将棋の駒のように動かされているのが「私」
そういう意味で「私」には実体性がないので、無といううわけです。
「私」はそれを含む出来事の総体(世界)に動かされているに過ぎないのです。
そう、霊界からみるとその通りなんです。
人間は霊界に動かされています。それを自覚できないだけです。
自覚するには神の高みに立たないとわかりませんが。
これらの「無」の行は、その行き着くところは、霊媒になるということです。
世界と神に対して「無」になるということですからね。
己が無になれば、高次の者が降りてくるのですから。
「無」の行は哲学ではなくて、すこぶる霊的なメソッドです。
言い訳ですが、専門家ではないので参考程度でお願いします。
霊能者としての内的体験に基づく私見です。
<エックハルトの無>
基本的にマイスター・エックハルトは、行者さんなんですよね。
日本で言えば、千日回峰行をなさっているお坊さんのような方、
と理解すると良いです。
ただひたすら、仏に帰依して、仏と一体化することを求めます。
それは恋愛に近い心境です。仏を愛して、愛すればいつも一緒に居たいと思うでしょ。
エックハルトも、キリストを憧憬し愛しました。接神の行です。
俗世の男女の恋愛でも、相手を心底愛すると、自分を忘れてしまうでしょ。
熱愛していると、相手のことばかり考えています。
エックハルトの無もこれに近い心境です。
でも相手は神様なので、ちょっと意味が違ってきます。
神を憧憬して、神を愛すれば愛するほど、己の中の罪人の部分が大きくなり、
それが苦しみになって湧き出てきます。それを神の前にさらけ出し昇華しますが、
大きな苦しみをともなう行になります。徹底して己を消し去り、無に至ります。
神に対する全身全霊をかけた愛が前提となっている「無」です。
<釈迦の無>
それは要するに「これは無かったことにしてください」という意味の無ですよ!
世界は、原因と結果の方程式により成り立ち、それが縁によって発動するというもの。
しかも、御釈迦さんは現象は「悪」という前提で物事を考えているでしょ、「色」
だからこの現世の現象は、良いものではないという固定観念があり、
なので、世界の始まりにさかのぼり、そのビッグバンは無かったことにしましょう、
と望んでいて、その意味での無なのです。
世の中は「色」だから、消えていくもので、それに執着するのは無意味っていうこと。
それは完璧に正しい、けど、「色」は悪いものではないですよ。神道の考え方!
釈迦の「無」こそ無意味かも知れない。
現世の現象は、宇宙が成長する過程であり、「善」なるものです。
<ウィトゲンシュタインの無主体>
世界は、出来事の寄せ集め、出来事の積み重ねであるという
「感触」があると理解できます。
その出来事の間を行ったり来たりしているのが「私」「自我」です。
さらにその「私」も、もっと大きな出来事の中で動かされています。
将棋の駒のように動かされているのが「私」
そういう意味で「私」には実体性がないので、無といううわけです。
「私」はそれを含む出来事の総体(世界)に動かされているに過ぎないのです。
そう、霊界からみるとその通りなんです。
人間は霊界に動かされています。それを自覚できないだけです。
自覚するには神の高みに立たないとわかりませんが。
これらの「無」の行は、その行き着くところは、霊媒になるということです。
世界と神に対して「無」になるということですからね。
己が無になれば、高次の者が降りてくるのですから。
「無」の行は哲学ではなくて、すこぶる霊的なメソッドです。
| 光の錬金術・魂のメッセージ | 01:59 | - | - | - |