徳川光圀「大日本史」の核心

 我々は三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)・三卿(田安家・一橋家・清水家)であるから全力を挙げて幕府(将軍)を助ける立場であるが、もしも朝廷と将軍家とが対立するような事になった場合には、日本の国のご主人は天皇であるから、将軍は一族の本家にすぎない、朝廷に弓を引くことは無い。と言うことを繰り返し親から教えられた。特に二十のころ念を押された。「唯それに従いたるのみなりき」という事を聞いて博文は非常にびっくりして渋沢栄一に語った。慶喜公の最後の判断、大阪退城後の一意恭順が水戸の庭訓であると言うことを、慶喜公自身が語ったものとして重要な資料です。

(「大政奉還と王政復古宮」田正彦より引用)



このような、慶喜公の尊王の精神は、弘道館で学んだ水戸の学問であり、烈公(斉昭)の教えでした。徳川家は代々、尊王の精神と朝廷を中心とした日本の正史を受け継いできたのでした。その原点は徳川光圀の「大日本史」です。光圀公の大日本史編纂の事業が明治維新を生み出して来たと言っても過言ではありません。

「大日本史」編纂の動機は、中国の、司馬遷の史記の、中の伯夷伝に感激したからと言う説があります。伯夷には弟の淑斉がいたが、父は淑斉に後を継がせようとした。父の死後、淑斉は弟の自分が兄を越えて後を継ぐのは道に反するとして、兄の伯夷に譲ろうとしたが、兄は父の意思として是を受けず、ともに譲り合い、連れ立って家出してしまう。

旅の途中、父が死んで間もないのに、クーデターを起こそうとしている発(武王)に出会う、二人は「父が死んでまだ葬らないのに自分から戦争を仕掛けるのは孝ではない。家来でありながら王を殺そうとするのは忠ではない」と、発を止めようとする。その後クーデターは成功しその國(殷)は滅び、周の天下となったが、このような道に反した國の食べ物は口にしないといって、餓死してしまう。首尾一貫、正道を貫いた高潔な兄弟として有名な話であります。

光圀は自分の身の上とオーバーラップし、伯夷伝に感動する。光圀も兄を差し置いて水戸藩の後継ぎとなっていたからである。この時光圀は兄の子を養子にし、次の藩主にする決心をする。と同時に、史記のような日本史の編纂を思い立った。つまり、史記のような正しい道を示す書物を世に出すことで、自分が感動して目覚めさせられたように、多くの人々にも正しい道を見出して欲しかったのである。

光圀の大日本史編纂の核心は、日本の社会の秩序を正しく維持するというところにある。「後世の重宝にも、まかりなるべきか」という表現をしている。

専門家は、水戸学を、光圀の大日本史編纂の前期と、藤田東湖から明治維新にいたる後期に分けて、主に後期を水戸学と言っている。これは私見であるけれども、私は「正道」という根底では前期も後期も同様と考えている。

水戸学に一貫する精神は「まこと」である。



スピリチュアルカウンセラー 茨城の母


| 徳川光圀「真心を求めて」 | 23:27 | - | - | - |